智福寺の歴史

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こんにちは。

ここでは智福寺の歴史について触れていきます。

 

智福寺は、現在の地(練馬区上石神井4丁目)に移転してきて、平成28年に50年目を迎えました。

その前は港区三田に、さらにその前は港区東新橋にありました。

 

なんと2度も移転をしてきたのです。その変遷を解き明かします。

智福寺開創から芝田町へ移転まで

智福寺は、江戸時代初期の寛永2年(1625年)春、桜田元町(現:東新橋のあたりだというが不詳)に一空(いっくう)上人によって開創されました。

一空上人は上総国の武士の子として生まれ、6歳の時に出家し、32歳で木食戒(穀物を食べず木の実や草の根のみを食す苦行)の念仏勤行を修められたのです。

それは、徳川家光が三代将軍に就いた二年後のことです。しかし、智福寺が建てられた場所は、のちに幕府の御用地になったため、芝田町6丁目(現:港区三田3丁目)に移転することになるのです。

いつ頃移転したのかは、明らかではありません。文政年間(1818~1829年)に幕府により編纂された『文政寺社書上』を閲覧しても、「右場所御用地ニ相成、年月不知、只今之所ヘ転地被仰付候」とあるだけです。

 

また、『港区史』には、次のように記されております(原文まま)。

 

「それが今の智福寺境内であるとされる理由として、

同寺に伝わる『智福寺開山一空上人略伝記』に寛永2年(1625年)智福寺の創建された桜田元町は、

いつの頃か幕府用地となり、替地を求めることになったが、

現在の土地が、以前の刑場で空地となっていたのを、他のことに用いるよりは寺院とすれば刑死した者も浮かばれようとして、ここに移ったとあるということ(原胤昭氏の説)、

また明和8年(1771年)智福寺が初めてそこにみえるより前の江戸絵地図に、周囲がすっかり人家に埋もれているのに、なお空地のまま取り残されていること、

耶蘇会側の記録にみえるとおり、江戸の市街へ入る門戸にあたり、上方へ通ずる街道沿いの広場で、後方に見物人の群集する小高い丘があり、また街道の前方はすぐ海であったという状況に一致することなどがあげられる」

当時同地は品川に向かう東海道沿いの丘にあり、長い間空き地になっていました。

その理由は、江戸の初期に行われたキリシタン弾圧(天和の大殉教)の刑場跡地だったからなのです。

一空上人にこの地への移転を決心させたのは、悲しみを抱えた土地を寺院にすれば、刑死した人々も浮かばれるだろうとの考えからでした。

このような背景により、智福寺は、桜田元町から芝田町のキリシタン処刑地跡に移転したのです。

殉教記念碑

芝田町の境内には殉教記念碑がありました。記念碑の前面に邦文、裏面に英文の碑文が刻まれています。

 

前面の全文は次の通りです。

 

「基督降世紀元一千六百二十三年十二月四日、

元和九年徳川三代将軍家光専制治下の江戸に於て吉利支丹宗門イエズス会士エロニモ・デ・アンゼリス神父、シモン遠甫修士、フランシスコ会士フランシスコ・ガルヴェス神父、原主水等五十名の男子は人類の救いのために、

人となり給うた神なるキリストに対する揺るぎなき信仰と熱愛とを証し、火刑の苦しみに耐て此の地於いて生命を捧げた。

茲に在東京男子カトリック教徒は此の事績を想起し、此の感銘を石に刻み、彼等の雄々しい霊魂に対して絶えざる崇敬の念を表掲する。昭和三十一年十二月四日 建立」

 

明治から昭和四十年頃までの智福寺

智福寺は芝三田・高輪付近にあった多くの寺院とともに江戸から明治へと時代を経ていきます。

江戸幕府最後の将軍慶喜が慶應3年(1867年)に大政奉還を行った。約260年にわたった江戸幕府が崩壊し、明治維新を迎えました。

勝海舟と西郷隆盛の会見により江戸城明け渡しが無血で行われ、江戸の町は火の海にならずにすみました。

新政府によって神仏習合を廃止する『神仏分離令』が布告されると、廃仏毀釈運動が全国に広がっていきます。

そして、神武天皇創業への立ち帰りを目指す『王政復古の大号令』が発せられ、神祇崇拝が盛んになりました。

この運動によって多くの寺院や仏像が破壊されてしまうのです。

そして追い打ちをかけるように、明治4年(1871年)、『寺社領土地令』により寺領が没収され、境内地は全て官有地とされました。法難といわれるこの事件により、全国の各寺院は一様に荒廃への道をたどることになります。

明治5年(1872年)、新政府によって一宗一管長制が定められ、知恩院は浄土宗の総本山となります。

それにより、智福寺は知恩院と本末関係を結び、知恩院の末寺となりました。

やがて悲劇がおこります。なんと、明治44年8月10日には崖崩れにより、本堂が倒壊したのです。

再建をはたしましたが、わずか10数年後の大正12年(1923年)、関東大震災が未曾有の被害を東京にもたらしました。

幸い智福寺は大きな被害を被りませんでした。

しかし、大正14年10月1日には再び崖崩れで本堂・庫裡八十余坪の建物が倒壊、墓地約200坪丈余の土砂に埋没する災難に遭遇しています。

昭和19年(1944年)11月24日、米国による大編隊からなる本格的な初空襲から終戦の8月15日に至るまで、東京は100回近い空襲を受け、40万発以上の爆弾と焼夷弾を浴びました。

特に3月10日未明の大空襲は、戦略爆撃による東京空襲中、最大の被害をみた空襲でありました。

この空襲による大火災は、大正12年の関東大震災に匹敵する被害をもたらし、港区でも旧芝区の区域はその50%が焼失したといわれています。

こうした度重なる空襲下にあって奇跡的に焼失を免れてきた智福寺も、ついに3月25日の大空襲により、堂宇が全焼しました。

練馬区上石神井への移転

高度成長政策で日本経済が急速に発展し始めた昭和36年(1961年)、近代化の流れ、様々な理由で智福寺の移転の話しが浮上しました。

ちょうど、東京がオリンピックオリンピック開催にむけて都市開発ラッシュに沸いていたころですね。

しかし当時、智福寺に移転の考えがなかったため即座に断りました。

ところが第16世住職深誉常光は、その後1年あまり思慮を重ね、次第に寺の将来を考えるようになりました。

「黙っていても周りのビル開発は続き、寺はその谷間に隠れてしまう。このままで将来寺を維持していけるだろうか」。

先述のとおり、智福寺は都内でも数少ない高い崖下に位置しておりました。

明治四十四年の崖崩れによる建物倒壊、さらに、大正14年の崖崩れで本堂・庫裡の建物が倒壊、墓地が土砂に埋没する災難に遭遇したのです。

大雨の都度、崖地の土砂が墓地に流出する状態で、自然災害を受けやすい立地条件の地にありました。

近い将来、本堂・庫裡の本建築を実施しなければならず、その場合このような崖下の災害を受けやすい場所でよいものであろうかと、移転へむけて動き出しました。

住職が法類の寺や関係者に相談すると、移転賛成の声が多かったのです。

そこで檀信徒にも納得の得られる移転地候補があるのか調べてもらうことにしました。

条件は「都内、世田谷方面、私鉄なら駅より徒歩10分以内の平坦地」。

そして行き着いたのが現在の地、上石神井でした。

古くは武蔵野の農業集落地で石神井川が横切る緑豊かな平穏な場所でした。

昭和39年1月15日、総檀信徒会議を開き、移転についての住職の考えを伝えました。

候補地・上石神井の説明をし、檀信徒一同の了承を得ることができたのです。

2年後の昭和41年(1966年)1月7日建築確認許可が下り、同年7月24日の落慶式をもって移転が完了し、現在にいたっております。